「鎌倉時代の遊郭伝承(恋路ヶ原、女沢、鎌倉沢)や新田義興(義貞の子)ら軍勢が笛を吹きながら豊ヶ丘(笛吹峠)から一本杉公園の尾根を通ったという行軍伝承などが残されています。」
「多摩市の関戸にあった、軍事上の関所「霞ノ関:を通らずに鎌倉へ向かう、本道の鎌倉街道よりやや西方の脇街道的な道路です。
府中の住吉町吹きから多摩川を渡り、多摩市一ノ宮の小野神社から和田「愛宕の切通し」を通り、豊ヶ丘公園(笛吹峠)付近から一本杉公園、町田市小野路へ続くルートです。」
吉祥院の裏山を唐沢やまというが、ここの尾根に鎌倉古海(街)道が通っていた。この道は鎌倉街道の裏街道にあたり、細い尾根道であるが正平7年(1352)新田義貞の子義興が鎌倉に攻めたとき、笛を吹いて通ったことから笛吹峠というようになったと伝えられている。現在は、豊ヶ丘の団地となっている。(多摩市の町名)
吉祥院の裏山を笛吹峠といいます。そのいわれは、新田義貞が鎌倉方を攻めたとき、その子である義興が笛を吹きながら、府中の分倍河原をめざして通った道と言われ、そこから呼ばれるようになりました。(歴史のさんぽみち)
吉祥院という寺は、義興、義宗たちの出城だったともいわれています。ここで、しばし休憩をしたあと、軍勢はすぐ裏手の鎌倉裏街道の尾根道に入っていきました。重なった疲労感から口をきく者はだれひとりいません。みな静かに黙って、疲れ切った体を、一歩一歩前に進めるだけでした。(中略)
やがて吉祥院の裏手の峠にさしかかったとき、義宗が一本の笛を取り出し、馬上でそれを静かに吹いたのでした。黙々と歩く兵士たちの疲れ切った体と心をいやすかのように、その笛の音はどこまでも響き渡りました。それを聴いた里人が、その話しを寺に持ち帰り、それ以来だれ言うことなく、この峠を「笛吹峠」と呼んだということです。(鎌倉街道伝說)
新田義貞が鎌倉ばくふ軍とたたかったとき(関戸の合戦)のおはなしです。義貞のむすこの義興は、分倍河原で新田軍といっしょになるため、多摩にむかっていました。しかし、鎌倉かいどうをとおればひと目につきやすく、ばくふ軍にみつかってしまうかもしれません。どうすればいいでしょう?義興は、鎌倉かいどうとほとんどならんでいる山の尾根づたいの細い道を行くことにしました。しかも、のんびりとふえを吹きながら歩いて行くことにしたのです。それに、尾根づたいの道をとおれば、鎌倉かいどうをとおる北条軍の人たちの動きをみることもできます。そこで、義興はふえを吹きながら乞田の吉祥院の裏山の道をとおて分倍河原に行ったのでそうです。こんなところから、この裏山は笛吹峠とよばれることになりました。(こどものための歴史のさんぽみち)
宮田太郎氏の著書「鎌倉街道伝説」によれば、貝取神社の裏山の尾根道は鎌倉 裏街道で、そこに笛吹峠(フエフキトウゲ)と呼ばれる峠があったという。その名の 由来は南北朝時代の出来事に遡るのだそうだ。正平7年(1352)、南朝方 の新田義貞の遺児、新田義興・義宗は宗良親王を擁して、北朝をたてた鎌倉の 足利幕府に対し大規模な反抗を企てた。いわゆる武蔵野合戦である。折りしも 鎌倉をめざし貝取の尾根道を進軍していた南朝軍は大変疲労していた。峠にさ しかかった時、吉宗は一本の笛を取り出し、馬上で静かに吹いて兵士の疲れを 癒したという。それ以来この峠を笛吹峠と呼ぶようになったという。(坂東武者が駆け抜けた鎌倉街道上ノ道(南部編)から)
小高い丘が重なり合った多摩丘陵の切れ目を縫うように旧街道は進む。乞田(こった)で乞田川を越えて対岸の永山の丘へ向う。この辺りは、行き詰まった大都市の住宅事情を解消する目的で始められた多摩ニュータウン計画に取り込まれ、すっかり姿を変えてしまった街道の景観は、広い道にコンクリートの石垣、規則正しく植えられた街路樹など、既に20年の月日が流れ、現代の整った生活環境を造りだしています。(旧鎌倉街道上つ道「新田義貞進撃路」貝取りから七国山から)